2022年05月30日
audrey
第26回アカデミー賞のライブ音声がローマの休日受賞を告げようとしている。
オードリーヘップバーンの生い立ちから晩年までを描く映画の序盤は当然ながら世界を魅了したオードリーの代表作が次々と紹介される。ご存じムーンリバーの名曲も彼女の直訴無しには陽の目を見なかった事など映画人としてのプロフェッショナルな側面も紹介されている。
高貴で知的なのになぜか憎めないチャーミングさをも併せ持った彼女はそもそも高貴な系譜をルーツに持ちながら戦時中はナチスの迫害を恐れて別の名前を名乗った事も、父親の失踪も戦争と無縁では無かった。
バレリーナになりたかった彼女は生活の為映画の端役に顔を出す様になり、ローマの休日主役を選ぶカメラテストの場に赴く。そこから映画の歴史を変えるサクセスストーリーが始まったのだった。
異色なのは彼女がとりわけミュージカル映画のダンスシーンを好んだことでアクティブに躍る彼女の姿は新鮮.マイフェアレディではボツにされた地声の歌唱シーンも披露される。
やがて最初の結婚,出産を経ると彼女のプライオリティは数多の名監督からの出演依頼を受ける事よりも我が子の子育てに移る事になる.これには大戦中生き別れた父親の喪失感が影を落としていた。フィルムに残る彼女が若い頃のものばかりなのはそう言った事情からだ。
けれど2度の結婚も夫の浮気やプライバシーの暴露などストレスを感じることが少なくない.一番の懸念は世界中から愛された彼女を一番愛してくれる人と逢えなかった事だった。
晩年の彼女はユニセフの広告塔として飢餓に苦しむ子供たちの為の支援活動に東奔西走しその活動規模を倍増させるほど大きな貢献を果たした。
スイスの静かな邸宅で犬と植物と毎日の穏やかな生活を夢見た彼女はまたしても夢を叶えられなかったが、幼い頃の飢餓体験は活動中の彼女の大きなモチベーションとなる.ここでも彼女の人生は過去と結び付く
ガンの進行を知らせずあまりに早く生涯を閉じた彼女の至福の時は家族と過ごした92年のクリスマスだったと語ったそうだ。
世界に愛されたアイドルは結局誰よりも自分を愛してくれる息子たちの存在を確かめる事が出来たのだった。
まるで筋書きのあるかのようなドキュメンタリー作品,資料映像と証言者たちのインタビューは世紀の大女優をとても身近に そしてその偉大さを改めて教えてくれるものだった。