マツダの元開発責任者でロードスター初代の生みの親:平井 敏彦(ひらい としひこ)さんが今週初め永眠されました。
実はこの人の存在なしに今の自動車産業は語れない。と言っても言い過ぎではないくらい大きな影響を世界のクルマ・マーケットに与えたその人なのです。
1989年まず北米で発表された二人乗りのスポーツカー:マツダMXー5〜MIATAは当時の度肝を抜く台風の目だったのです。
マツダが立ち上げた新ブランド、ユーノス系列店の目玉商品として9月に国内販売されるや否やたちまちバックオーダーの長いリストが!私が発注した青いロードスターも納車されるまでに翌年まで半年以上待たされたものです。
それだけではありません。海外メーカーもこぞってこの未開拓だったマーケットに続々参入、フィアットもMGもメルセデスでさえも2リッター以下のコンパクトな2シーター・オープンスポーツの開発に着手。一つのカテゴリーとして、長く空席だったこの市場に喝を入れる火付け役となったのでした。
でもメーカー自身、こんな大ヒットを確信して発売に踏み切ったわけでは決してありません。
開発の平井さんも正面から提案した訳ではなく、仲間内で半ば会社には内緒で進めていたプロジェクトだったのです。
販売実績もない、量産車とは共有部品も少ない専用部品開発のスポーツカー、それも日本では売れた試しが無い2人乗り乗用車。重役たちを説得して世に出すのは明治維新、開国と同じくらい難しいことだったでしょう。
他のメーカーだったらまず重役会議でボツだったことでしょう。イヤ正式に開発のゴーサインすら出なくても当然です。そこは平井さんの熱意と根回し、そして何より完成していたプロトタイプの出来栄えがあまりにも素晴らしかったから世に出たのに他なりません。
ロータリー・エンジンでこそ有名なマツダという会社にあってノンターボのレシプロエンジンにこだわった人馬一体というコンセプトの小さなスポーツカーを併売するのは決して容易いことじゃありません。
しかし時代も平井さんの味方でした。時はあたかもバブル景気と見事にシンクロ。マツダの販売店拡充政策にも見事に合致した企画となったのです。
単月生産だけで4,000も5,000台も作っては売れ続けたロードスター、日本国内市場だけを見るとこんな大ヒットを記録したスポーツカーはフェアレディZやサバンナRX -7でも敵わなかった数字です。イヤそれ以上でした。生産累計はあっという間に世界販売50万台突破。完全にマツダの売れ筋商品でした。
今では流石に当時のような熱狂ぶりはありませんがロードスターは代を重ねて現在4世代目。5世代目の登場を待ち望む声も少なくはありませんが、世の中は平井さんが拘ったガソリン・エンジン単体での存在を難しくする一方です。ロードスターが人気の北米や欧州での規制強化はロードスターの存続と言う希望の前に大きく立ちはだかっています。
一昔前に直接お会いしてお話を聞けた時の印象は、とにかく理知的で計算深い人、何もかも理詰めで攻めてゆく天才棋士と対峙しているような緊張感を覚えたものです。ガソリンエンジンに逆風が吹きまくっているこんな時代を平井さんならどう受け止めていたのでしょう?
そんな未来は見たくも無い、と平井さんなら思っていたのでしょうか?
施設で平穏な日々をおくる生活から本当に眠るように天国へとステアリングを切っていった平井さん。
平井さんがいなければオープンエア・ドライブを日常の楽しみとすることも、毎年千台余ものオーナー達と交流の場を持つことも無く、私も全く違った人生を歩んでいたのかも。各地でミーティングに集結するオーナー其々も、きっと同じ思いで平井さんを悼んでいるのかもしれません。