先週土曜日の夜、東北地方から関東、西日本に至るまで広い範囲を襲ったマグニチュード7・3の強い地震、人命こそ奪われなかったものの道路や鉄道インフラには大きな爪痕を残しました。
とりわけ東北新幹線の被害は甚大です。コンクリート構造物が何十箇所も被害を受け、10日もの部分運休を強いられる非常事態は10年前の大震災以来最大級の被害となりました。
18日時点では一ノ関以北の岩手、青森、秋田、それに山形、北海道の新幹線は運転を再開したものの福島、宮城県内と栃木の一部区間の運休が続いていましたが24日には全線での運転が再開されそうです。
仙台までは常磐線特急ひたちが新幹線の代役を担いましたが、福島・東京間は在来線普通電車しか代替手段が無く、私大受験日を迎えた受験生には死活問題として対応を迫られました。
高速バスや山形、秋田、青森の航空便は臨時ダイヤや機材の大型化でも対応しています。が、10年前の震災当時には辛うじて、まだブルートレインが生き残っていたものです。北陸路や羽越線には上野を出発する特急あけぼの、それに関西と新潟間の急行きたぐにも、まだ健在でした。もしもこれらが生き残っていたならば予備車を回して臨時の東北線特急を仕立てることができたかもしれません。
今では東京口で見られるたった1つの寝台特急がサンライズ。ブルートレインの車両は、もう国内には在籍が無くカシオペア編成が唯一残るのみですが定期の運用はありません。
昔々、まだブルートレインが全盛だったころ、といっても90年代の終わりころまではブルートレインが相次いで通り過ぎていく光景を線路沿いのホテルの窓から眺めて時計代わりにできたりしたものです。そんな寝台特急にはほぼすべて、食堂車が連結されていました。ギャレーと給仕、そのほか10人近いスタッフが昼夜を問わず忙しく働きながら東西南北を走りまわっていたものです。担当する会社も日本食堂と帝国ホテルがあり、女性のユニフォームもそれぞれ色が違いました。
列車の出発前、事務所デブリーフィングを終えると制服姿のスタッフたちが列車に乗り込みます。発車までにも作業は盛りだくさん、テーブルのセットはもちろん、車販の弁当などのセッティングを慌ただしく終え、出発時刻に列車が動き出すと一列に並んで遠ざかってゆく出発ホームに一礼します。と、間もなく営業開始の時間。ギャレーもフル回転の時間が続きます。途中駅の停車では追加の食材を搬入したり、と分刻みの仕事が続き・・・・
夕食のお客を迎えた後は後片付けと就寝の準備。人数が多い時などは揺れる車内でテーブルを跳ね上げ、いすを並べて臨時のベッドを仕立てます。早朝になると朝食客を迎える準備、食後も車販の仕事が残っています。旅情に酔う暇もなく、列車は目的地の街へ。
列車を降りても仕事は続き、事務所に戻ると会計と清算のチェック、拘束時間はゆうに2日分を上回ったりもします。列車の乗務員が男ばかりだった昔、もしも鉄道好きな女子が定職に就こうと思えば食堂車のほか、あまり選択肢はなかったように思います。今はごく限られた車両の食堂車が不定期で営業されるのみですが、運転士や車掌、アテンダントなどに就く女性の姿も珍しくなくなった現在では、食堂車勤務にあこがれる女子がどれほどいることか・・・・・古き良き時代という言葉も男目線ならでは、ということなのでしょうか