2020年02月06日
不屈の社長
トヨタも日産も存在しない100年前から続く自動車メーカーのマツダ,過日創立100年を迎えました。半世紀前までマツダの舵取りに手腕を発揮したのが実質的な2代目社長の松田恒次、その伝記を読みます。
マツダの原点はコルクを作る会社、東洋コルク工業・・・・だったのが関東大震災のあおりで、従業員90人弱の中小企業は経営破綻の危機に・・・・・
多角化を求めて乗り出した削岩機製造、二輪車製造を経て庶民の運送の足、オート三輪の開発・生産に乗り出します。舗装道路も少なかった昔、常に三輪が接地する構造が簡単で安価なオート三輪は魅力的な移動手段。原爆投下後,資材をかき集め作られた三輪車は広島の街を走り回って復興に貢献、やがて2トン積みにまで発展し、大阪由来のダイハツと覇を競います
。
そんな東洋工業(当時)の実質的な2代目社長、松田恒次はその名前の通り、恒に次の一手を考える人でした。ダイハツより先んじて元々の宿願だった四輪車に進出、軽自動車シェアではスバルを抜いてトップに、一時はトヨタ日産を抜いて生産台数日本一を誇ったものでした・・・・・・
ロータリーエンジンの開発・生産でも群を抜いていましたが、オイルショックの到来は経営基盤を大きく揺るがす結果となってしまいます。が、それは恒次社長の及び知らぬこと。広島東洋カープが優勝したことも彼の没後の出来事でした。
本田宗一郎とほぼ同時期にマツダを率い、多彩な人脈を生かし、波乱に満ちた生涯を送った松田恒次について書かれた伝記は恐らくこれが初めて。両者に共通するのは技術に裏打ちされた優れたモノ造りの精神とカリスマ的な経営手腕。四輪車進出ではホンダやダイハツに先んじたほか、世界で最も早く2ローターの市販車生産、ルマン制覇とこの会社ならではの偉業は恒次の先見性に大きく依存したものでした。
マツダは松田家の元を離れ一度はフォード傘下に収まり、今やトヨタと強い提携関係を結びつつあります。この会社が今後、どんな道を歩むのか