2010年07月18日
a.d.710~
日本の首都が平城京(奈良市の西北部)に置かれた西暦710年(和銅3年)、和同開珎が発行された頃、
「古事記」日本書紀、万葉集が完成するのもこの時代・・・
710年なんと(710)見事な平城京――、藤原京から平城京へ遷都
ただいま平城遷都1300年祭開催中。
復元された遣唐使船は上海にも姿を現しました。
http://blog.explore.ne.jp/shanghai/38685.html
唐の国(の都;長安)を目指して600人の派遣団を4隻の船に
分乗させて、
日本に宗教、文化、産業はじめ、様々なものを持ち帰るという
外国文化のいいとこ獲りを目指す、
そんな一大プロジェクトはもっと驚きを持って人々の目に映ったはずです
その重要な運搬手段がスペースシャトルほどの大きさの
遣唐使船だったという訳です。
史実にはその当時スペックらしき記録がいっさい見当たらず、後世に
ようやく、おおざっぱな概要が分かっただけなので、
当時の姿は推測を元に復元するしかありません。
全長30mの船体に乗船していたのは留学生や政府高官、それに
操船に必要な水夫、ナビゲーター、医師、祈祷師、天候を占う陰陽師、ほか
150人の搭乗員が乗り込み、四~五隻でフリートを組んでいたとされます。
最初の航路は対馬海峡から黄海を韓国の西海岸沿いに長江の中流域まで
遡り、あとは陸路で数ヶ月。やがて朝鮮半島情勢が不穏になると
東シナ海を一気に突っ切って長江を目指す、最短コースを選びます。
百人乗りクラスのジェット機と同じくらいの全長に150人
三百トンの船体は二本マストに竹で編んだセールが各一枚
追い風だけが頼りで、海が荒れたらサヨウナラ。四~五隻で
フリートを組んだのはリスク分散の意味があったと言われています。
もしも、政権与党が「次のはやぶさ二号機には与圧室を設けて有人タイプとし
日本人宇宙飛行士による火星探査を目指す」と言い出したら国民はどれほど驚くことでしょう
生還の保証のない大冒険、ですが日本に貴重な外来文化を持ち帰り
高僧を招き入れた、スペースシャトル並みの大冒険です。