2014年04月01日
80年代を変えた男
森田一義アワー「笑っていいとも」の放送最終回がおわったとして、NHKのニュースにも取り上げられた。高平哲郎、鶴間政行らベテラン作家陣が手がけた最終回スペシャルでもタモリはほぼ涙を見せることもなく、淡々と感謝の言葉を述べて番組を終えた。タモリ自身はまだまだ健在である。番組のフォーマットが飽きられる時が訪れたのか?いや、32年も飽きられずに同じスタイルが通用した事の方が驚異なのかもしれない。
1980年代初頭のフジテレビは万年三位の座に甘んじ、母と子のフジテレビというソフト路線を継承していた。それを目玉マークの個性的なロゴマークとともに根底から覆したのが当時の鹿内社長・新体制で、俺たちひょうきん族、おはようナイスデイ、スーパータイム、なるほどザ・ワールド、夕焼けニャンニャン、東京ラブストーリー等トレンディドラマ群と各時間帯で好調なセールスを記録し、一躍ゴールデンタイム、全日時間帯のトップに躍り出るまでに激変した。
笑っていいともの前、この時間帯はB&Bの司会による同形式のバラエティー「笑ってる場合ですよ」だった、時代はMANZAIブーム真っ只中、だが決して長続きした訳ではない。お笑いタレントがブームのさなか、吉本や松竹芸能の人材を昼帯の帯番組に進出させようとした試みが上手くはいかなかった結果、タモリを筆頭にお笑い界の人材を使わないバラエティーとして開発された番組がいいともだったのである。しかし、明石家さんま、笑福亭鶴瓶といった巨星を皮切りに次々と新鮮な人材が投入され、タモリ本人も驚くほどのギネス記録級長寿番組となった・・・・挙句に変わり映えのしない顔ぶれもやがては飽きられる時を迎え、結局笑ってる場合ですよと同じ末路を辿ることになったのは皮肉ではある。
いいともも開始早々、「いいとも」の流行語やいいとも青年隊の人気とともに番組も同時間帯視聴率トップの仲間入り、ベルトクイズQ&Qや噂のスタジオ、アフタヌーンショーといったワイド番組を軒並み駆逐するまでにさほどの時間はかからなかった。当時のタモリは自分の人気を一過性のもの、いずれ芸能界では忘れ去られる存在、と達観していた。深夜放送でよく口にしていたのは努力が嫌いな自分、努力している姿を人に見せるのはカッコ悪い、という独自の美学だった。そもそも、この不思議な芸人は欲というものを人前に出さない。本当に無いのかもしれないし、人に見せないだけなのかも。
そんな飄々としたニュートラルな人柄は競争社会の芸能界にあって一種孤高の地位であったかもしれない、と私は思うのです。誰もタモリの悪口を言う人はいない。そんな無害さも人気を長続きさせる秘訣なのかもしれない。出演者の誰もが言う「タモさんに怒られたことがない」も然り、本人曰く「反省はしない。自分のオンエアは見ない」いつまで経っても番組に慣れるというスタンスをとらなかった。それが、常に新鮮さを失わなかった秘密か?
気ままな自由人を装ってエゴイズムを一切表に出さない。いや本当に欲を捨てて悟りを開いていたのだろうか?不思議な不思議な存在のタモリ。実はデビューの頃から大好きで、よく十八番のネタを真似したり、毎週水曜深夜のラジオ放送を欠かさず聞いていたり、私の中では83年にオールナイトニッポン降板の時点でタモリではなくなってしまったけど、今でも同録のカセットテープは門外不出の宝物なのです