2012年12月02日

アポロ17月着陸から40年

今年も数多くの著名人が天に召されてゆきました
その中の一人にニールアームストロング元船長がいます。
空軍で腕利きの名パイロット、との名声を買われて月着陸船のパイロットに抜擢されました。
今から43年前の、7月16日(現地)一人の大統領の公約を果たすためにNASAの
有人月着陸プロジェクトアポロ宇宙船の11番機/サターン5型ロケットがフロリダ州ケープカナベラルの発射台から旅立ちました。
Imgp3806

1960年代も残すところ半年を切った夏のこと、
月着陸を約束したのは、暗殺されたJFK=
ケネディ・アメリカ大統領。公約の期限は60年代中
アポロミッションは月着陸を最終目標にすえた宇宙船で
8号で月の周回軌道に人類で始めて乗ったほか
10号では最終リハーサルとして、月面着陸の
最終アプローチまでが行われています。

これに先立つジェミニ計画では宇宙船同士による
ランデブー飛行やドッキング作業・宇宙遊泳など
アポロ計画に必要なさまざまなミッションが成功を収めました。

三人の宇宙飛行士は36階建ての高さに相当するサターン5ロケットの
ほぼ頂上付近に並んで寝そべる形で発射の瞬間を待ちます。
5機のメインエンジンに点火すると100m近い巨大なロケット
サターン⑤型は38万�;彼方の月面、静かの海を目指してゆっくりと上昇を始めます。

地球周回軌道に乗ったアポロ11は月に向かう軌道に入ります。
決められたタイミングに、決まった尺(シークエンス)で
サターンロケットの三段目ロケットを稼働させます。

この時点で三人の宇宙飛行士、コリンズ、オルドリン、
そしてアームストロング(船長)は、司令船と呼ばれる円錐形カプセル、アポロチョコレートと同じ形の船内に搭乗。三人分の窮屈なベッドとドッキング用トンネル
あとは計器盤のスペースしか有りません。
最後に地球に帰還する時もこのカプセルだけが地球に帰還します。

Imgp3800
月までの38万㌔、途中軌道の確認や機体姿勢の変位、使用した酸素、水、廃棄する物質の確認など数字のやり取りは頻繁に続きます。Dsc01078ここで司令船は一旦三段目ロケットから分離してUターン。三段目上部に格納された月着陸船モジュールを
引っ張りだして来ます。右の写真の透けて見えているのが三段目先頭部分。

アポロ13号ではこの小さな空間が三人の生還の鍵を握っていました。
司令船の先端には脱出用ロケットが有りますが、打ち上げ後、軌道に乗ったら御用済みです.この部分に月着陸船がドッキングします。三段目ロケットは此処でお別れ、今でも宇宙空間のどこかをさまよっているのでしょうか?

着陸船の窓から見える月の直径も次第に大きくなって来ます
月の引力圏まで着たら、司令船後部のエンジンを逆噴射して
スピードを落とします.こうしてアポロ11号は月の周回軌道へと入ります。
いよいよイーグル分離、単独飛行がはじまります。

月の周回軌道に達したら一人を司令船に残して
月着陸船は着陸準備へと移ります。コクピットの三角窓はやや下向きにセットされており
飛行士達は立って操縦します.体重は地球の六分の一.座れなくても多分平気です。
Imgp3803
二つの窓の間には計器盤と操縦桿.その下は出入り口です。
Dsc01087 

月着陸船「イーグル」は切り離され単独で飛行しています。
交信相手は今までヒューストンとアポロ11でしたが
現在はイーグル、コロンビア、ヒューストンの三者に別れています。
アメリカ東部夏時間1969年7月20日午後4時18分(米国東部夏時間)
細かな塵を放射状に吹き飛ばして月着陸船「イーグル」は月面に降り立ちました。
コロンブスがアメリカ大陸を発見して以来の大冒険成功の瞬間です
Dsc01093月面に降り立ったアームストロング船長の名セリフは
アメリカ東部 夏時間20日午後10時56分20秒(日本時間.21日午前11時56分20秒)に!Dsc01084カラーテレビを買ったのに、映る生中継の映像は白黒もどきの不鮮明なもの。
それでも同時通訳を頼りに人類の第一歩の瞬間を誰もが食い入る様に見ていました。
今まで生きて来た中でこれほどの歴史的な瞬間はほかに無かったと思います。あとで写真雑誌[LIFE]で見たカラー写真はグレーの無彩色の月面のメタリックな
感じがとても良く出ていました。勿論カラーフィルムにおさめられたフィルム原稿からの映像です。

日本時間21日午前には月への第一歩を踏み出しました.船長ニールの息づかいも大きく、興奮の度合いが窺えます。


大仕事を終えたイーグルは20時間ちょっとで月面を離れます
上昇するのは真ん中から上の居住スペース分だけ。四本の脚を
持つ下の部分は発射台としてこの場所にとどまります。
つい最近上空から衛星で写真撮影され、巷で流れたハリウッド
撮影疑惑も晴れそうです。

Dsc01089

月着陸船が地球に向かうことはありません。
最低限のお土産、採取した岩石、フィルムカートリッジ
ヘルメットとグローブ等再び使うモノ以外は
月への置き土産です。そのまま月の周回軌道を回り続けます

月着陸という歴史的偉業を終えたクルーは司令船に戻ります。
そして帰還に必要なお土産類を移して、不要なものは月着陸船と一緒にオサラバ
司令船だけが地球を目指します。
ここからは文字通り司令船の中で川の字の旅。25万マイルもの窮屈な旅ですが
休憩時間もたっぷり。旅の疲れを取るにはこのくらいが適当かもしれません。
Dsc01083この時点でチタン合金製の司令船はピカピカ
後ろの機械船は大気圏再突入の直前までお供します。

いよいよ、最後の難関、大気圏再突入。三角形のオムスビ型カプセルだけが
東太平洋の着水ポイントめがけて落下してきます。
大気との摩擦で表面はオコゲ状態。ハッチ共々
ここスミソニアン博物館に展示されているのは
実際に月を回ってきたアポロ11号の実物です。

Imgp3797

さて22日は皆既日食の日
東京でもこれくらいなら期待出来たけど・・・・Dscf0433硫黄島にて皆既日食の姿を見事キャッチに成功したのは国立天文台 硫黄島観測隊。そのハイビジョン映像を、超高速インターネット衛星「きずな」を通して
お台場の未来科学館でキャッチしたものです。Dscf0447これ、キミにあげるよ。今度は012年9月にもね!
Dscf0448

直前に沸き出した雲や中継回線のトラブルと
最後までハラハラさせられっぱなしでしたが
何とか未来館に入れたことが幸運だったかも

| 12:54 | コメント(6) | カテゴリー:吉田雅彦

コメント

吉田さん、お疲れさまです。
自分は、当時実年齢3歳(満4歳の年)、記憶はありませんが、5日後の21日の事は覚えています。
アポロ月面着陸は、自分の中の意識は、どうしても21日になってしまいます。
当時小学6年生だった吉田さんは、どのような状況でこのニュースをご覧、あるいは受け止められたのでしょうか?

投稿者 ちなみん : 2009年7月15日 13:58

1969年を振り返ってみると、まさに
テクノロジーの話題でもちきりの一年だったような印象が有りますね.

エレクトロニクスの分野ではIC「集積回路」の名前を
よく聞く様になった頃でした.シリコンで造った基盤の上に
ダイオードや抵抗、コンデンサ、といった回路を刻んだ模様をプリントし
真空管もトランジスタ部品も使うこと無く増幅回路を
形成出来る、画期的な技術です.ここから電卓が
発達し、マイクロプロセッサー、パソコンへと
発展して行きます。いわば今日のデジタル社会の
根幹を形成するキーとなったテクノロジーでした。
その頃はトランジスタのラジオがICラジオになって
小型軽量、でも高価になったくらいの受け止め方しか
してませんでしたが・・・・・
カセットテープが本格的に普及し始めるのもこの頃です.
それまでのオープンテープは放送局とかマニアックな一部の
顧客にしか売れない商品で、同じ幅のテープを使った
8トラックエンドレステープがカーオーディオ用に
普及し始めていました.が、これはもっぱら再生専用で、
屋外でも気軽に録音再生が楽しめる、というカセットの登場は
深夜放送のエアチェックという新しい手段の機材として
若者にも受け入れられ、ラジオカセットという
ハイブリッド商品が瞬く間に市場にあふれて行きました。

いっぽう、自動車業界で年頭の話題をかっさらッたのは、
日産から発売されるとんでもない性能のスポーツセダン。
レーシングカーR380のエンジンを搭載し、ラジオも
ヒーターもホイールキャップも
装備されない4ドアセダンが時速200kmを叩きだす.

スカイラインGTーRの登場です.今に繋がる赤バッジ伝説の始まり.途中中断も有りましたが
GTーRは今年四十周年。当時まだトヨタはあの2000GTを生産中でした。

ホンダは軽自動車N360の成功を土台にこの年登録車市場に本格参入。噂された
1300ccで百馬力の乗用車はホンダ1300/77シリーズ・99シリーズとして
95馬力/115馬力のスペックで業界の度肝を抜きました。
おまけに水の要らない空冷エンジンでオーバーヒート知らず、を
うたい文句にスバル1000に次いで本格的な前輪駆動を採用。
N360並みの大ヒットが期待されましたがさっぱり売れなかった事でも話題を独占。

この頃三菱車と云えば地味なクルマ造りでデザイン面では他社に
大きなリードを許していたものですが、この年発売された
コルト・ギャランシリーズは三菱車のイメージを劇的に変えてしまいました。
直線で構成されたウェッジシェイプの斬新なボディ・デザインは
Giorgetto Giugiaro (ジョルジュエット・ジウジアーロ )の作とも噂され、
斬新な角形のヘッドライトと相まって、新しいイメージを与えました.
エンジンも最強版のGSでは1500ccで105ps。最高速175kmを標榜していました。
クラスで上から17番目くらいに美人の子がいきなり
ランキング1位になって登校してきたくらいのインパクトは
ありましたね。

てんとう虫ことスバル360も11年目にして初のモデルチェンジを敢行し、話題に上っています。
リアエンジン空冷二気筒後輪駆動はそのままにワーゲンビートル並みのかぶと虫ルックから
トランクスペースも併せ持つ2ボックススタイルに大変身を遂げて水冷化にも備えています。
名前もR-2を名乗り、最近名前だけがリバイバルで復活を遂げています。

軽自動車ではもう一台、老舗の三菱ミニカがミニカ70と銘打って2ボックス、
ハッチバックの斬新なスタイルで登場しています.乗用車の縮小版みたいだった
3ボックススタイルの初代からは見違える変身ぶりでした。

あらっ?トヨタの新車が出て来ませんねえ。
実は翌年、カローラ、コロナ、セリカ、カリーナ、クラウンと
矢継ぎ早に新車攻勢をかけるため
69年はしばしお休み.マーク場Kに最強版GSSが登場しますが、
実質的なTOYOTA1600GTの後継車.排気量を1600から
1900に増量したツインカムエンジンを搭載した
事実上のGT=Rのライバルです.人気の面では足元にも及びませんでしたが。ね

唯一フルモデルチェンジされたのが初代パブリカ。
TOYOTAの地味なリッターカーで、空冷二気筒の
水平対抗エンジンを普通の水冷四気筒に置き換えて
カローラの廉価版ポジションを狙いました。
ダイハツからOEM生産のコンソルテベルリーナも
登場し、GMの得意とするバッジエンジニアリングの
先駆けとなりました.カローラは1100から
1200ccに排気量を増量、翌年のサニー1200を
迎え撃ちます。

暮れも押し詰まり、70年代もスグそこまで迫って来た頃
日産からフェアレディーの新型が発表されました。
日本名フェアレディーZ.屋根の開かない2ドアクーペで
しばらくは従来型のオープンボディSR311も併売されています。
シリーズの内にはGTーRと同じレース用ベースのS20エンジンを積んだZ432も用意され
最高速210kmを誇っていました。Zもまた、今年40周年のお祝いの年にあたるって訳ですね。

あの頃は出るクルマそれぞれが個性や技術革新に溢れ新型車発表の記事を毎日心待ちにしたものです。
今日に比べていかにときめきが感じられる時代だったか!
こうして日本の工具製品も段々国際レベルに近づきやがて世界一の自動車大国への道を歩む事になります。

アメリカ/フォードは人気車種ムスタングに最強版マッハワンと
豪華版グランデを追加します.排気量ではざっと国産車の四倍。
豊かさもパワーも全て日本車を圧倒する勢いでした。
まさか四十年後に政府支援を仰ごうとは・・・・(フォードは関係ないけどね)

航空宇宙技術ではアメリカの足元にも及ばない日本でしたが翌年には自国開発の人工衛星を初めて打ち上げる事になるんです。
そう、来年は日本が宇宙への扉を開いてから40年を迎えます。
宇宙開発で当時のソ連を
大きく引き離したアメリカ.人工衛星打ち上げで先を越されてから実に12年ぶりの逆転勝利でもありました。

初めての人工衛星打ち上げにソ連が成功し、宇宙開発が産声を上げてからたった11年と少々
月面に人類をたたせるという大統領の突飛とも思える公約に、多くのスタッフが情熱を燃やし
執念で大目標を達成した。やればできるを文字通り実現して見せたこの歴史的快挙は
日本のエンジニア達にも多くの影響を与えているはずです。
理科離れが叫ばれて久しいこの頃、子供達が理系を目指すようなニュースに乏しいのも
あの頃に比べると、寂しい感じがしてたまりません。

高性能競争、それは自動車の世界のみならず様々な分野でも繰り広げられていた
あの時代のキーワードです

投稿者 吉田雅彦 : 2009年7月16日 07:58

吉田さん、再び失礼します。
現段階で脱線に導くコメント、どうぞお許しください・・・
昨日がアポロ発射当日だった云う事で、寛大なお心で受け止めてくださると、本当にうれしく思います。
吉田さん、昨日のJAM、高瀬・吉田両デスクが揃い師弟コンビ、そして高瀬デスクと多田さんの土曜コンビ、そして高瀬デスクと小林まどかさんの元・金曜JAMコンビと、豪華なトライアングルでしたね!!
おまけに、高瀬デスクがお書きになられた、「ナガサキ
消えたもう一つの”原爆ドーム”」でなく故・忌野清志郎さん特集とは・・・
思わずメモリーに保存しました!!
考えてもみれば、清志郎さんが亡くなった日=J-WAVEフリマ初日=高瀬デスク・多田さんコンビで、ラストのお天気に、清志郎さんの訃報が速報で入った日でしたね。
久しぶりの師弟コンビが揃った現場で、何かエピソードはございましたか?
尚、自分のブログは、昨日深夜(と云うより日付変わって今朝)、BOOKMARKしている貴(本)ブログの次のバナー、東海林さんのブログが目に留まり、訪問して頂いた方が・・・
自分にとっては、最重要・第2,3,4・・・の順に優先順位通り配置しているのですが、ブログ開設7週間、これが激しく人さまの心を揺さぶるとは・・・(今、東海林さんのトラフィック真っ最中です!!)

投稿者 ちなみん : 2009年7月17日 16:56

高瀬デスク著「ナガサキ・消えたもうひとつの原爆ドーム」
も併せてお読み戴き、感想もお寄せください

投稿者 吉田雅彦 : 2009年7月18日 05:28

実際のアポロ13号の月面飛行は生死に関わりかねない機器トラブルがあってかなり大変だったと聞いております。
それらを乗り越えて歴史に残る月面着陸、無事生還した事は現在の宇宙科学技術に大きな進歩かつ善き影響を与えたのはいうまでもありません。
ロボットアニメやスターウォーズの世界とまではいきませんが、将来それらに近い領域までは達する事は可能かもしれませんね。

投稿者 小人部隊一号 : 2009年7月20日 16:03

実はアポロ計画スタート当初に尊い犠牲を払っていたのを
ご存知でしょうか。アポロ1号で、地上訓練中に火災事故が発生し
三人の宇宙飛行士の人命が失われています。NASAの
プログラム中、宇宙飛行士が犠牲となった初めてのケースです。
事故を機にハッチの開閉方法ほか様々な改善が施されています。
実際に飛行したアポロが7号からなのは縁起担ぎ
だったのでしょうか.6号までのミッションは無人で行われ
その後NASAが敢えてジンクスの13号に挑んだのは
計画成功に揺るぎない自信を持っていたからでしょうか、
あちらの大抵のビルディングには13階は有りません。
13号の事故はあらためて映画や小説で見てみると
奇跡的な生還だったことが解ります.月着陸を諦めて
さっさと帰って来る、なんて生易しいものじゃなかった
んですね.世界中が三人の運命の行方を見守りました。
詳しくは映画にも描かれている通りです。リアルタイムで
我々世代が経験した実話です。
ある意味11号の次に有名になったアポロミッションでは
ありましたが・・・・・

投稿者 吉田雅彦 : 2009年7月21日 18:28

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