2009年12月08日
日米航空交渉の行方
7日からワシントンで日米航空交渉が
行われています。
航空交渉は二国間交渉が原則で、
国際航空路線を開設する場合には、
開設するそれぞれの国との交渉が行われて
います。
では、なぜこのような交渉形態になったのでしょうか。
第二次世界大戦も連合国側の勝利が近づいた
1944年、戦後の民間航空制度の構築について
話し合う国際会議がシカゴで行われました。
(連合国側の話し合いで日本は勿論参加していません)
この会議では、領空主権の再確認やIOAO=
国際民間航空機関の設立などが合意(シカゴ条約)
されましたが、航空運送業務に関しては、有利な
交渉を進めようとするアメリカとヨーロッパ各国との
調整がつかず、結局、二国間の交渉にゆだねられる
ことになりました。
第二次大戦の末期、アメリカはヨーロッパの戦いに
参戦し、ドイツやイタリアに対して徹底した空爆を
行いヨーロッパを開放しました。
この際、軍用輸送機によるアメリカ本土からの物資の
輸送が行われ、アメリカはヨーロッパ各国に先駆けて
航空路線網を確保することに成功したのです。
シカゴで行われた国際会議では、こうした有利な立場を
ヨーロッパ各国に認めさせようとしました。
アメリカによる空の覇権を恐れたヨーロッパ各国は
一斉に反発し、航空交渉はそれぞれ路線網を確保
しようとする二国間同士で話し合いが行われるように
なりました。
その後、アメリカは1948年6月に起きたソ連政府による
ベルリン封鎖の際に、連日、航空機による物資の空輸を
行い、西ベルリンの危機を救いました。
有名なベルリン空輸作戦です。
この時に、アメリカは軍用輸送機は勿論のこと、
民間航空の旅客機もこの作戦に参加させ、アメリカと
ヨーロッパを結ぶ航空路線網の構築を他国に
先駆けて実現させました。
これがその後のアメリカとヨーロッパ各国の航空協定
に微妙な影響を与えました。
戦後、航空活動の再開とともに日米間にも航空協定が
結ばれましたが、それは戦勝国と敗戦国の立場を鮮明
にした不平等条約となったのです。
その後、交渉を重ねるごとに不平等は徐々に解消されて
きましたが、今日でも完全なる平等は両国間に於いて
達成されているとは言えません。
現在行われている日米航空交渉では、空の自由化=
オープンスカイの行方が注目されますが、10日まで
行われる交渉でどのような話し合いがなされるか
注目されるところです。