2022年01月21日
media攻防の相手⑴
昭和20年代、東京や大阪に民間ラジオ放送局が相次ぎ誕生した少しあと、日本で最初のテレビ放送が始まりました。
と言っても高価なテレビ受像機を買える富裕な日本人はまだ数百人しかいなかった時代のこと。そこでテレビ放送を普及させるべく当時の日本テレビは街頭の人が集まりやすい場所に何台もテレビを設置してタダでテレビを見せようと目論みます。
最初のキラー・コンテンツはプロレス中継でした。大相撲出身のプロレスラー力道山はたちまち国民的人気者に!集まりすぎた人だかりで二階の床が抜けたデパートや、駅の改札を制限した電鉄会社の逸話など枚挙に暇がありません。そうしてじわりじわりと普及が進むテレビに対して、次第に脅威を感じるようになったのは、まず映画産業でした。
家庭にテレビが無いのが当たり前だった時代、お気に入りの石原裕次郎を見たければ映画館へ足を運ぶのが普通でした。人気作品の封切ともなればどの映画館も立ち見覚悟の上、扉が閉まり切らないほどの盛況ぶり。今では考えられない黄金時代です。白黒画面のテレビと違ってカラーの大画面で裕次郎を拝める映画館は実は限られていました。
当時は5社協定なるものが存在し、映画スターは各映画会社の社員、または専属契約なので他社の映画に出られません。そこで我が社にも裕次郎に負けない人気者を、と各社新人スターの発掘に奔走します。高倉健や加山雄三、小林旭もこうして発掘された新人スターから出発しています。女優でいえば吉永小百合があまりに有名・・・・
そんな映画の黄金時代は黄金週間=ゴールデンウィークを除いて長く続くものではありませんでした。テレビが普及し始めると、自宅でドラマや映画を座ってタダで視られるようになるからです。テレビ初期から幾つも人気のドラマが生まれました。事件記者というドラマでは黒電話の受話器を左肩と顎に挟んで原稿を聞き書きする新聞記者の姿が全国で真似されるようになったものです。
音楽番組からは幾多のヒット曲も生まれました。坂本九の上を向いて歩こう、梓みちよのこんにちは赤ちゃん、渥美清のひとりモノetc。歌手には実力のみならずルックスも求められた時代の到来です。
皇太子ご成婚を見るために家庭に導入されたテレビによってラジオの聴取時間が割を食うのではないかと危惧されました。そこでラジオは大きな方針変換を図ります。セグメンテーションという考え方です。
例えばお茶の間に集まって家族と一緒にテレビを見られない客層はいないか?カーラジオをつけている職業ドライバーが聞いてくれそうな番組を作れないか?そうしたユーザーを特定した番組づくりが始まります。それまで放送休止などの時間だった深夜の時間帯に長距離トラックドライバー向け、或いは受験勉強中の若者に向けた番組が深夜放送という形でスタートします。
レコード音楽を掛ければ、簡単に時間が埋められますが、その選曲をリスナー自身に委ねてしまう、リクエストハガキを募るというやり方を始めたのもラジオでした。葉書にはユニークな文面や思わず人に伝えたくなるような投稿も数多くあり、やがてこれが番組の中核をなすようになります。
番組スポンサーもいすゞ、日野、日産と言った自動車メーカーから、広く家電や出版業界にまで広がりを見せます。セグメンテーションに依って顧客を絞り込めるのはスポンサーにとっても好都合なケースが多くなります。
こうして産まれた深夜放送は70年代に入って全盛期を迎え,文化の発信源にもヒット曲の発信サイトともなったのです。ビートルズは70年に解散したあとでしたが四人のメンバーが夫々シングル曲をリリースするので,ヒットチャートは大盛況.ジョンレノンのイマジンもこうしたムーブメントから産まれた1曲でした。山本コータロー、南こうせつ、吉田拓郎、あのねのね、かまやつ ひろし / ムッシュといった人気歌手に混じって放送作家の永六輔に愛川欽也、野沢那智、白石冬美といった声優や小島一慶、林美雄、土居まさる、落合恵子、斉藤 安弘(アンコウ)ら局アナをスターダムの座に押し上げ、あまたのヒット曲を世におくりだしたものでした。