2021年03月16日
丸の内に八重洲が?
八重洲(中央区)の語源ともなるオランダの航海士ヤン・ヨーステンや三浦按針ら100名もの船員を乗せた帆船デリーフデがチリ沖からはるか太平洋を突っ切り、過酷な航海の末に九州・大分、臼杵の岸にたどり着いたのは16世紀も末のこと。関ケ原の合戦まで目前というタイミングでした。
その傷だらけの航海を再現したレリーフ像が丸の内に飾られています。オランダ国王が訪日時に贈呈してくれたもので、青銅製のリーフで号は長さが1m以上あるもの。
セールは度重なる大嵐で斜めに裂け、荒波にもまれながらの航海を偲ばせます。
一度は捕らわれの身となった按針たち船員は、船の武装が幸いして時の大殿;家康の臣下に迎えられます。按針ことウィリアム・アダムスは妻子に済まないとは思いつつも美しい通訳の娘、お雪を娶り三浦半島に領地を与えられ旗本として生きる覚悟を決めます。
臼杵にたどり着いたデリーフデ号はその後伊豆・下田を経て東京湾にえい航されましたが、経年変化と航海の激しさから著しく損傷し、二度とイギリスには戻れない姿に変わり果ててしまいます。
船大工の経験もある按針は、この廃船同然の骨組みから図面を起こし、船大工たちの育成もかねてメイドインジャパンの帆船、按針丸を建造します。
キャプテンのクワケルナックら帰国を望むメンバーらに手紙を託し、按針丸は帰国の途へ......託した手紙は妻、メアリーのもとに届くのか?
帆船、デ・リーフデの忠実なレプリカは長崎・佐世保のハウステンボス、シーフード・マーケット前の桟橋にも展示されています。
徳川家康の天下統一もその後の天下泰平も、あるいはこの船がたどり着かなかったらどうなっていたのだろう?と考えると、もうちょっと日本史でウェイトを置いて教えてくれてもよかったんじゃないの?と思います。
幅広い3層構造の船室は幅こそたっぷりあるものの太平洋の荒波やうねりに遭っては、さぞ大きく揺れたことでしょう。
オランダとの交易や、三浦按針の数奇な人生はその後の日本にも大きく影響を与えています。一隻の船が日本に与えたインパクトはあまりにも大きかったといえるでしょう。
一隻の帆船が変えた歴史・・・・また、見に行きたくなってきました・・・・