2015年12月02日

多摩川の旧ランドマーク

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 東横線・目黒線で多摩川を渡るとき、上流側の堤防に見えているコンクリートの段々・…昔から見慣れた光景なので気にも留めていませんでしたが、ここが観客席だったと知る人は少ないようです。それも日本で最初の常設自動車レース場、つまりサーキットなのでした。
 多摩川スピードウェイで日本グランプリのルーツに当たるレースが開催されたのは1930年代後半のこと。戦艦大和の建造がはじまりドイツではフォルクスワーゲンの開発の真っ最中、本来ならば東京で最初のオリンピックが開かれるところでした。
 そんな時代にあって、第一回の全日本自動車競争選手権に参加したのは東京・下町育ちのオオタ自動車、創設まもない日産、そしてドライバー&メカニックとして参加した若き日の本田宗一郎でした。町工場といえども技術では負けない・・・そんなオオタが日産をかわして優勝を飾ります。雪辱に燃える日産チームの中にはのちに北米にわたりダットサン・フェアレディーZの生みの親として殿堂入りを果たした片山豊の姿もありました。

 そう、この最初のレースに日本の自動車産業に欠かせない立役者が何人もいたのです。雪辱に燃えた日産は総力を挙げて第二回レースにも参加。しかし宿敵オオタはドライバーの負傷で欠場、その後は日本の戦局もあって日産の参加はかなわず、一騎打ちのチャンスは二度とめぐっては来ませんでした。

 資本力の乏しいオオタは高速機関工業(株) と名を変え、戦後も細々と生き残りはしましたが、やがて消滅。しかし、開発者でデザインもこなす太田祐一は日産自動車宣伝課長となった片山豊の依頼で、戦後初のスポーツカー・「ダットサン・スポーツDC-3」の車体を設計します。日産の中に息づくオオタの血筋…
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高速機関工業(株) オオタOC型 1936年式 フェートン
(オオタはやがてくろがねと合流、現在の日産工機の源流となりました)

 そして、戦争をはさんで30年後、富士スピードウェイで開催の日本グランプリでは、日産R380~381が圧勝、本田宗一郎が鈴鹿に設けたサーキットで世界の頂点=F1レースが行われるのは半世紀ものちのことでした。

| 08:31 | コメント(0) | カテゴリー:吉田雅彦

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