2015年08月14日
1945 -登戸研究所
小田急線生田駅を降りて小川沿いに歩くと、程なくして明大生田キャンパスの敷地に行き当たります。この場所は70年前の今ごろまで陸軍技術本部第九研究所があった場所。その後は明大に払い下げられ、建物群のうち今も現存している1つは資料館として公開されています.
【企画展「NOBORITO 1945 ―登戸研究所 70年前の真実―」】
<第一期>2015年8月5日(水)~2016年3月26日(土)
「NOBORITO 1945 ―8月15日までの登戸研究所―」2015年8月5日~会期終了
写真は全て撮影・掲載承諾済み
戦前に作られた頑丈な造りのこの鉄筋コンクリート製の建物は、当時毒ガス/生物兵器開発にかかわっていた場所。ほかにも風船爆弾やスパイ機材の開発が行われtいたのがこの登戸研究所で.戦局を有利に展開する為の技術開発に明け暮れていたというのですが
もうすぐ硫黄島も陥落し、ますます戦局が不利になろうという頃、実行に移された風船爆弾=「ふ」号作戦とは和紙を蒟蒻のノリで貼りあわせた巨大な気球に生物兵器を搭載してこれを偏西風に載せてアメリカ本土まで飛行させ、生物兵器に汚染された乳牛の牛乳を飲めなくして敵国の戦意を喪失させようと云うアイデアでした.実際に生物兵器の搭載は見送られたものの、通常爆弾搭載の風船は10%ほどが実際に太平洋を超え北米大陸に到達したという記録も残っています。
水素の浮力で上昇後、五千mほどで最大容積に膨張.高度1万mに到達したあとは気圧計と連動したバルブで水素の量を調節。夜間、低温で高度が下がったらバラストを放棄して昼間再浮上、高度を維持しながら太平洋を渡り切るという凝ったメカニズムです。
人命を犠牲にしない攻撃兵器ではありますが、アイデアコンテスト出品作品ならイザ知らず、同じ頃ニューメキシコ州ロスアラモス研究所では原爆開発の為の実験が繰り返されていたことを思うとそのガラパゴス的技術格差には、悲しみすらも感じてしまいます。