2014年08月08日
昭和の名車・キャロル360(MAZDA:1960)
原爆が投下された広島の中心部にはマツダ(東洋工業)の本社があり従業員に多数の死傷者が出ました。が,戦後10年のちにはマツダの3輪トラックはダイハツと市場を二分する大ヒットに。引っ越しのトラックといえば10中8〜9はこれでした。
スバル360が軽自動車として異例の性能の良さから爆発的ヒットを飛ばしていた昭和35年頃,マツダのキャロルはスバルには無い、より豪華な路線を狙いました。5ナンバー小型車並みの四気筒のエンジン,4枚のドアは当時の軽自動車としてはとても豪華な装備でした。クリフカットと呼ばれる屋根のラインは日本車離れした、オシャレなデザインのはずでしたが,日本ではほぼ40年後のトヨタ・ウィルまで採用例もありませんでした。
昭和30年代も後半ともなればTVの普及に伴ったヒット曲も数多く生まれています。歌謡バラエティ番組でオンエアされた・こんにちは赤ちゃん,上を向いて歩こう、をはじめ数々の洋楽カバー曲もポピュラーな存在でした。Ohキャロル,と云うタイトルの歌も日本ではお馴染みの存在(でもこれがキャロルキングのことを歌っていたと気づかされるのはずっと後でしたが)広島の若者たちがロックグループ「キャロル」を旗揚げして東京に進出して来たのは,初代のキャロルがまだ生産中の時代・・・
軽自動車に4ドアと云う組み合せは1971年にホンダライフが採用するまで,ほかにはありません。そして当のキャロルも二世代目では2ドアのみに統一、ロングルーフの先進的なデザインに生まれ変わりましたがライバルメーカーは相次いで4ドアを採用。新型はロータリーエンジンを搭載か?の噂が絶え間なく流れましたが。生産されたのは二気筒エンジンのみでした。第一次軽自動車ブームはほどなくして終わってしまい、マツダの軽乗用車もしばらくの間、不在の時代が続くことになります。
自社開発のマツダの軽が復活するのはさらに20年ののち、しかし,新生キャロルに二度と4ドアは復活しませんでした.矢沢のいたキャロルも,あの時代だけ・・・今販売されているマツダの軽自動車はすべてスズキの工場で生産されたOEMなので、キャロル360はマツダが開発した最後の4ドア軽自動車となります。