2014年08月14日

ほんとうの終戦の日

 8月15日は終戦記念日,と日本人の大半が認識していますが、実際に日本がポツダム宣言を受諾したのは前日の14日。国民が初めて終戦の事実を知らされ15日正午からの放送はアメリカ東部時間にすると、まだ8月14日の夜遅くのことで、東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリの艦上で重光葵(しげみつ まもる)外相らが太平洋戦争の降伏文書に署名するのは9月2日のことでした。ここに日本と連合国との戦争は終結の瞬間を迎えます。舞台となった戦艦ミズーリ.当時のアメリカ海軍にあって最大クラスのアイオワ級の一隻.戦艦大和には及ばないものの,40センチの主砲は間近でみると圧巻です。大戦後にいったんは退役しながら,30年の休眠をへて、レーガン政権下で現役復帰を命ぜられ湾岸戦争にも参加しています。IMGP2655.jpg
 現在は二度目の退役をへて,ミュージアムシップとして第三の人生のまっ最中、一般公開され連日大勢の観光客で賑わいを見せています。

 詳細まで見学出来る艦内には医療施設から作戦司令室、大勢の乗組員の胃袋を満たす為の,厨房や食堂,それに就寝の為のベッドが多数備わっています。90年代まで現役だっただけあって、今でも見劣りしないくらいにはアップデートされています。
 おまけに数年前にはハリウッド映画「バトル・シップ」に駆り出されて三度目の就役を果たし,浅野忠信と共に見事地球の危機を救う大役まで果たしています。復活して宇宙戦艦に生まれ変わったヤマトみたいな発想です。
 そのミズーリが舳先を向けた先にあるのはアリゾナ・メモリアル.真珠湾攻撃で撃沈させられた戦艦アリゾナの追悼施設です。白いオーバブリッジの下に,今も沈んだままの戦艦アリゾナが,亡くなった乗組員共々永い眠りについています.燃料タンクからは終戦後の今も毎日毎日,漏れだした燃料が海面上に油の帯をつくっています。

 アメリカで最後の戦艦と呼ばれたミズーリ号も就役早々に,日本軍の特攻機の攻撃を受けています。乗員らに犠牲者は無かったものの,名も知らぬ異国の搭乗員の部分遺体だけが残されました。艦長以下、祖国を思って命を散らした若い兵士を弔う為に急いで日章旗をあつらえ、手厚く葬ってくれたと云います。敵国を憎めども兵士を憎まず、勝ち組だったからこその余裕なのかも知れませんが、こんな人々を敵に回して戦いを挑んだ政治判断があらためてうとましく思えます。

| 22:34 | コメント(3) | カテゴリー:吉田雅彦

コメント

吉田さん こんばんは
自分もハワイを訪れた際、真珠湾へ行きアリゾナメモリアルも見学してきました。ハワイに来たそれまでのはしゃいだ気持ちとは裏腹に、転覆し沈んでいるアリゾナを見て、ここから日米開戦のひぶたが切られたかと思うと神妙な気持ちになったのを覚えてます。母方の祖母の兄弟も若くして南方で戦死されていますし、両親も集団疎開先で玉音放送を聞いた世代です。毎年終戦記念日になると、あの時はね……と昔話になります。もしあの大戦を回避できたとしても、今の繁栄した日本になっていたでしょうか?後日もっと悲惨な事態が有ったかもわかりませんし、今よりもっと良い日本になっていたかもわかりません。ただあの大戦で亡くなった世界の多くの方々の犠牲があったからこそ、少なくとも自分たちの現在の平穏な暮らしが送れていることを考えると、犠牲になった方々に感謝しご冥福を祈らなければいけないと思います。

投稿者 tetzz : 2014年8月15日 22:30

tetzzさんは(多分)早起きして、完全アウェーの見学施設までボートに乗って行かれたんですね・・ワタシは二日もトライしていずれもsold-outでした!
両親から直接戦時中の体験を聞くことが出来るのは我々の世代が最後でしょうね.直接体験を語り継ぐことの難しさ、それにもまして戦争の負の遺産を残すことの難しさは、高瀬デスクの「ナガサキ・・・」をあらためて読み直して痛感しました。
さて、戦争で亡くなった多くの英霊の犠牲のもとに我々の幸福が築かれているのか・・・・ちょっと考えて、下記のような雑文をしたためてみました.お暇でしたらご一読下さい

投稿者 吉田雅彦 : 2014年8月16日 22:31

 20世紀を象徴するテクノロジー、発明と云えばやはり飛行機の発明とその進歩をおいてほかには無いでしょう.しかし、その飛行機が戦争の道具としてモ大きく貢献してしまったのも悲しい事実です。もしも飛行機の発明があと50年遅かったら.戦争の形も大きく変わっていたことでしょう.二度の世界大戦も飛行機の開発なしには大規模なものとなり得なかったかも知れません。 


 それでも第1次大戦の頃にはまだまだ、複葉機に備え付けの機関銃で、マンツーマンで撃ち合う、といった原始的なものでした。しかし二度目の大戦ともなると、話は違って来ます.航空戦力による爆撃でポーランドに侵攻したのはドイツが開発した急降下爆撃機。堀越二郎も採用を考えた逆ガルウィングの主翼を持っていました。真珠湾で奇襲攻撃を仕掛けたのは航空母艦を主体とする航空戦力そのものでした。この真珠湾攻撃の直後に戦艦大和が就役することになりますが、もはや大艦主義の時代ではなくなっており、皮肉にもそれを証明してしまったのが同じ日本海軍の航空機戦力だったと言うわけです。


 では航空機が無かったら・・・・無名のリンドバーグも我が子を誘拐されることも無かった、かも.日中戦争も地上の兵力のみが主戦力で、真珠湾攻撃の主力は大砲を装備した戦艦の攻撃、勿論それなりの反撃も負傷者も覚悟の上です.戦艦大和の就役まで数日待ってからの作戦開始だったかも。太平洋上の陣取り合戦は戦艦の大砲による撃ち合い合戦、当然大和の45センチ砲に敵う相手は見つかりません。原爆は開発出来ても運ぶ手段は飛行船だけ、これでは投下のあと離脱するスピードが遅過ぎて搭乗員たちの安全が確保出来ません・・・・やっぱり、飛行機が戦争を大きく換えた、日本の命運もまた然り、のようです

 

 だからといって飛行機の存在理由を否定しようと云う訳では有りません.航空機がなければ得られない利益、幸福だって沢山あったはず。人間、便利なものはとかく誤った使い方をしてしまうのが悲しい性.それが恐ろしい破壊力を伴っていただけに戦争の結末を酷く悲劇的なものにしてしまいました。


 さて、英霊の犠牲があってゆえの我々の幸福があるのかについてですが、確かに敬意を払うべきだとは思います。が、政権与党の都合の良い解釈で上塗りされた美談、という意地悪な解釈も出来る様です。結果的に彼らが死ぬことは日本にとって、必然、幸福なことだったと云うことになってしまうのでしょうか? もしも日本が奇跡の発展をなし得ていなかったら英霊たちは犬死にだったと解釈されてしまうのでしょうか?それはあくまでも結果論。

 特攻隊員として二度も出撃し、二度も九死に一生を得て奇跡的に生き延びた元乗組員の方が報道番組で話しておられました。「同期の彼らは死をも恐れず必殺必勝を信じて飛んで行った。同期の彼らがもしも生きていたならば、きっともっと良い日本になっていたかもしれない・・・・少なくとも彼らは素晴しい人生を送って来たに違いない!!」


 全く同感です、若い命をマイクロチップのごとく使い捨てにして、それを発展の礎になったと言い張るきれいごとにはどうしても賛同しかねるんです。若い兵士ひとりの命すら守れない国家など存続する価値があるのか?べきなのか?

 21世紀の今、やはり人類は飛行機の使い方を少々誤っているようです。今も中東では航空機から投下された爆弾で、戦闘員ではない一般市民が殺されてゆきます。戦闘目的に限らず、正常な航空業務のオペレーションにおいても経済活動や利潤を優先するあまりリスクの大きな領域に足を突っ込んでしまったことは、昨今のニュースでもお馴染みの通り。技術が進歩しても人間の方はちっとも進歩して無いじゃないか・・・・そんな宇宙人の呟きも聴こえて来そうな気がします。(長くなりましたが最後までお読み戴きありがとうございました)

投稿者 航空戦力と世界大戦 : 2014年8月16日 22:42

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