2014年03月23日
朝鮮特需とLEADERたち
この週末TBS系列で二夜連続放送されたドラマ「LEADERS」は言わずと知れたトヨタ自動車がモデル、取引銀行の実名が出せないからなのか、番組スポンサーにも名前を連ねなかったところに、遠慮ぶりが伺えます。それはともかく人員整理、生産調整、資金繰りといった言葉が並ぶのは60年前も今も変わらず・・・
物語の終焉、朝鮮特需の知らせを待たずに息を引き取った喜一郎社長の「国産自動車を育成すれば日本復興の礎になる」というポリシーは、見事に具現化されました。日本どころか今では世界を代表するトップブランドに。そんなトヨタがここまで経営に行き詰まり、苦汁を舐めていたことをドラマは克明に描写しています。
もしも朝鮮半島で戦争が勃発していなかったらどうなっていたのか?日本が自前の自動車産業育成を諦めたままだったら、今頃は外資系の借り物ブランドばかりでハイブリッドやロータリーエンジン車の開発など望むべくもなかったのか?その後のイギリス自動車産業の凋落ぶり※を見てみれば日本も同じ道を歩まなかったとは言い切れません。
※英国独自のブランドは大同連合した後(BLMC)外資に相次ぎ売り渡され、独自資本の大手メーカーは皆無になった。今やジャガーもミニも中身は他国の技術を応用した着せ替えブランドに過ぎない
ドラマでは語られなかったその後のトヨタ自動車は・・・・・・・・・・・
1955年、100%独自開発の中級自家用車クラウンを発売、タクシー需要を牽引役にオーナー需要の開拓に大きな役割を果たす、※※大衆車開発では一進一退ののち1966年のカローラ発売でマイカーブームを牽引。月産3万台という大風呂敷は絵空事ではなかったことが証明され、オイルショックを機に北米輸出も本格化。カムリは今だに全米ナンバーワン販売台数を争う乗用車に。輸出産業の花形として貿易摩擦を引き起こすほどに成長、アメリカではバッシングの標的にすら成るほど強大な力を持った。
※※その頃の大手各社は欧米からの技術導入で現地生産化する道を選んだ日産=オースティン、いすゞ=ヒルマン、日野=ルノー、三菱=ウィリスのちに、徐々に国産化、ブルーバード、ベレル、コンテッサ、パジェロの開発に繋がった。た方で航空機開発を土台とした富士重工業、富士精密(プリンス)三輪トラックから軽自動車に発展したダイハツ、マツダ、二輪車を土台に四輪車も開発したホンダ、鈴木と発展の経過は様々でしたが、プリンス、いすゞ等中型クラスからの乗用車市場参入で今も存続するのはトヨタのみ。