2009年12月13日
オープンスカイで合意
7日からワシントンで開かれていた
日米航空交渉で日本とアメリカは
航空会社が路線や便数などを自由に
設定できる航空自由化協定を結ぶことに
合意しました。
オープンスカイ協定と呼ばれるこの合意で、
日米の航空会社は来年10月以降、
羽田空港とアメリカを結ぶ旅客便の路線を
1日4往復まで運航できるようになります。
長い間、日米間の不平等条約として日本が
常に不利な立場にあった日米航空協定は、
これでようやく解消され、原則として政府間
交渉で決めている日米路線への新規参入が
これで完全に自由化されます。
羽田空港は来年から新しい滑走路の完成などで、
また成田空港は2本目の滑走路の2500mでの
運用開始などで発着枠が大幅に拡大します。
政府はこれを機会に羽田と成田のハブ空港化を
図り、激しさを増すアジアの空港との競争に
生き残りを賭けることになります。
思えば1978年、カーター政権下で始まった
アメリカの航空規制緩和政策はディレギュレーション=
規制緩和、自由化という言葉を一般化し、
瞬く間に世界を席捲しました。
この政策はカーター政権下で航空運輸の専門家
であった女性が立案したものと言われています。
それまで認可制となっていた航空運送業務の
規制枠を撤廃し、誰もが航空運送業務に進出
出来るようになりました。
このためアメリカ国内では、一時期、数百社に
上る航空会社が誕生し、大型機を導入する
会社から小型機で空のタクシー業務を行う会社まで
まさに百花繚乱の状態で、航空運賃の価格競争に
拍車をかけました。
これがLCC、いわゆる格安航空会社を誕生させる
きっかけとなったのです。
格安航空会社の先鞭をつけたのは、イギリスの
レイカー航空でした。
それまでチャーター運航を主に行っていたレイカー
航空は、既存の大手航空会社の航空運賃を
大幅に下回る低価格の運賃設定を行い、
イギリスの労働者やバックパッカーたちに絶大な
人気を博しました。
もちろん、アメリカでも格安航空会社が次々と誕生し、
パンナムやトランスワールドなど大手航空会社の
経営を大きく脅かし始めました。
こうした状況に危機感を強めたイギリスやアメリカの
政府は格安航空会社に圧力をかけ、雨後の筍の
ごとく誕生した格安航空会社は次々とその姿を消して
いきました。
レイカー航空も例外ではありませんでした。
レイカー航空の倒産は、後のリチャード・ブランソン
率いるヴァージンアトランティック航空の設立に
大きな影響を与えたと言われています。
格安航空会社の台頭と既存の大手航空会社の
経営破たん、その芽生えは1978年の
ディレギュレーションにあったのです。
世界でもっとも経験ある航空会社、パンアメリカン
航空でさえその姿を消すことになったディレギュレーション、
世界中のパンナムマニア(私はパンナムの社員バッジを
持ってます)にとっては、何とも恨めしい大空の自由化で
ありました。