2008年12月21日
私のラジオデイズ59
1970年に起きた三島由紀夫事件から
7年後の1977年9月27日、
この日も、昭和事件史に残る重大な事件が
発生しています。
横浜米軍機墜落事件です。
この日は泊まり勤務で、夕方からの出社のため
昼間は川崎市麻生区内(当時)の自宅にいました。
自宅付近の上空は、厚木基地に離着陸する米軍機や
海上自衛隊の航空機のアプローチエリアになっており、
ベランダからは頻繁に航空機の姿が確認できました。
午後1時を過ぎたころ、突然、普段とは明らかに異なる
ジェット機の轟音が轟き、慌ててベランダに飛び出すと
目に飛び込んできたのは、エンジンノズルから
胴体の長さの3倍近い炎を噴出して飛行している
F-4ファントム(正確には偵察型のRF-4B)でした。
高度は1000フィートほどで、射出座席を作動させて
脱出した2名のパイロットがパラシュートでゆっくりと
落下する姿も確認されました。
部屋に戻って一眼レフカメラを鷲づかみにすると、再び
ベランダに出てシャッターを数回押しました。
フィルムには、黒煙を残しながら高度を徐々に下げていく
ファントムの炎が小さな点となって写っていました。
カメラに装着していたレンズは広角レンズだったのです。
やがてファントムは力尽きるように数百メートル前方の
林の遥か彼方に消え、間もなく巨大な炎と黒煙が
立ち上りました。
この間、わずか数十秒の出来事でした。
墜落を確認すると、直ちに会社に第一報を入れました。
「横浜市緑区付近にアメリカ海軍のF-4ファントムが
墜落しました。すぐに速報を入れて下さい!!」
通報から数分後に「ここでニュースが入りました。
横浜市緑区付近にアメリカ海軍のF-4ファントム機が
墜落しました。詳しい情報が入り次第お伝えします」
と放送が流れました。
事故発生から5分ほどしかたっていなかったと思います。
テレビの速報が流れたのはそれから30分ほど
たってからです。
その内容も「横浜市緑区付近に小型機が墜落した模様です」
といった程度でした。
完全なスクープでした。
自らの目で事故の一部始終を目撃しただけに、
どのメディアより早く正確な情報を伝えることが出来ました。
と、ここまでは職業柄、経験した事実をお話しましたが、
この事故で2人の幼い男の子と、4年数ヵ月後にその母親が
全身やけどの壮絶な闘病の末お亡くなりになっている
事実を考えると、とてもスクープなどと浮かれる気持ちには
なれませんでした。
事故の数年後、亡くなった母親のお父様に取材し、
ご仏壇に手を合わせご冥福を祈らせていただきました。
たまたま、事故を目撃し報道した者のせめてもの償いの
気持ちもありました。
お父様に事故の目撃者だったことをお話しすると、
大変驚かれ詳しい状況をお聞きになりました。
犠牲となった3人のご遺族がお住まいの同じ町に
現在、私も住んでいることを考えると、不思議な気持ちに
なります。(後日談はいずれまたお話しすることに
いたしましょう)
事故が起きた1977年9月27日のこの日、泊まり勤務に
ついた私をさらなる事件が待っていました。
続きは次回に・・・・・