2020年03月31日

・・・だぁ、が聞きたかった

東急東横店が3月末日限りで閉店、セレモニーも催されることなく85年の歴史に幕を下ろしました。Dscf0296銀座線の改札から直結、夏には中古カメラ市や古本市で定期的に訪れたものでした。トミカ限定版が意外にも遅くまで入手できたことも特筆できます。

他方で29日急逝した志村けんの訃報には日本中が驚きました。

ボーヤと呼ばれ、ドリフの付き人から5人目のメンバーに昇格したのは、(まだツービートもデビューしていない)1974年。初期メンバー荒井注の脱退、独立を受けてのことでした。この頃のドリフは全員集合が大人気・・・・そのスタートは実は裏番組対策でもありました。
1968年当時人気絶頂だったコント55号をゴールデンタイムに起用する局が相次ぎ、フジテレビは土曜八時に「世界は笑う」と題して二人の冠番組を開始、前番組は円谷プロが巨額を投じたSF実写ドラマ「マイティ・ジャック」だったので方針の大転換です。日本テレビでも日曜日8時に「裏番組をぶっ飛ばせ」で55号を起用、小学生までもが野球拳を真似し始めると、とたんに低俗番組のレッテルを貼られます。
そんな55号人気の向こうを張ってTBSが土曜8時に登用したのがまだ発展途上だったザ・ドリフターズ。すぐさまお茶の間の人気を奪還し加藤茶は一躍人気キャラクターとして引っ張り役となりました。あとは各ワイドショーでも語られる通り、70年代を通してカトちゃん、ケンちゃんの双璧は日本じゅうを席巻したものです。

80年代に入るとフジテレビが「おれたちひょうきん族」で反撃、明石家さんま、片岡鶴太郎、ビートたけし、うなづきトリオ等々お茶の間の人気と視聴率を高めてゆきます。カトちゃん、ケンちゃんの二人も追われる立場から追う立場に。やがてドリフのメンバーもピンで活躍する機会が増え、全員が集合する機会は減っていました。
とはいえ志村けんの人気は衰えることを知らず、現在ですら数本の冠番組を抱えるだけでなく、連続ドラマへの出演、初の主演映画撮影が控えるという人気ぶりをかれこれ40年以上もキープしてきたのは驚きです。

・・・・ドリフターズのメンバーとして一番若かった、一番の人気者が先に逝ってしまったことは加藤茶の言葉を借りるまでも無く、日本の損失であり、その喪失感はあまりにも大きい。なぜこんなにも素晴らしい、愛されるキャラクターが命を奪われなければならないのか。出棺ですら傍にいることを許されなかったご遺族の心痛を思うとやりきれない気持ちで一杯です。

| 12:52 | コメント(0) | カテゴリー:吉田雅彦

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