2022年01月25日

mediaの歴史⑶1930s

ドイツのヒットラーはラジオの演説で、大衆の心を掴み一躍ナチ党を政権与党に押し上げた。そう思われていますが調べてみると事実はちょっと違います。なぜならまだ彼らが少数野党だった頃ラジオ放送は与党の支配下にあってヒットラーがラジオ演説を放送することは不可能だったからです。
では、ナチズム共々、彼等はどのようにしてプロパガンダを広めていったのか?

ひとつは外圧の利用でした。イギリスやアメリカの新聞にインタビュー記事を掲載し、イギリスのラジオ放送では肉声によるインタビュー―のプログラムが予定されていました。が、政権側は(新法を拵えて)これを直前に阻止します。
そこでヒットラーは考えました。レコード盤を何万枚と量産して配布したり、演説の模様などをまとめたニュース動画を映画の予告編と共に並べて国中の映画館で上映したのです。さらには選挙遊説のために、演説会場間の移動をユンカースの高性能飛行機に託して一日に大都市を何か所も駆け回ります。予定の時間にわざと遅れて到着し、聴衆の期待を煽るやり方もこの時からのものでプーチンの専売特許ではありません。

選挙運動の甲斐あって政権を手に入れるといよいよラジオ放送を活用した演説のスタートです。が、第1回の放送は惨憺たるものでした。
原稿を棒読みするだけの放送では著しく説得力に欠け、ヒットラーは発生方法から学び直すなど徹底的に演説のノウハウを見直します。演説の放送もスタジオではなく大聴衆を前にした実際の演説風景を放送するやり方に改めました。いわゆるライブ版ってやつです。すると聴衆の歓声や拍手などが効果的なSEとして、演説を彩ります。
映像に残される様々なジェスチャーもこうした過程で彼が学んだものの一つ。チャップリンの名作「独裁者」も、こうした演出がなければ生まれなかったことでしょう。

それだけではありません。政権はさらに担当大臣を通じて電機メーカーに家庭用ラジオの大量生産を命じます。牛のお肉にしてだいたい5kg相当、庶民が買えなくもない価格で・・・・数年後に価格は半分近くにコストダウンし、国民にはヒットラー演説を聞くことが義務として求められたのです。
ラジオ購入者には演説の度に、演説をだれと聞いたか?聞かなかった人はその時間にどこにいたのかなどを書いた用紙の提出が義務化され、職場では集会場に集められた職員たちが大型のスピーカーに耳を傾ける光景が見られました。しばらく後には演説も決して聴衆から歓迎をもって迎えられたとは言い難い状況だったとか・・・・
ラジオ以外にも映画製作やビラの配布などプロパガンダの強要は枚挙にいとまがなかったという程です。

そんなヒットラーの残した政策では高速道路網=アウトバーンの建設と、そこを時速100kmで大人4人を載せて疾走する国民=フォルクスの車=ワーゲン開発が挙げられます。最上の解を提示したのが有名なポルシェ博士でした。メルセデスベンツ在職中にはSSSKという超ド級のスポーツカーを開発した天才です。
国民は労働に応じてスタンプを集め、999マルクで新車が一台買える計算でした。でも、ドイツ敗戦とともにヒットラーもこの世のものではなくなり、戦前にVWを手に入れた顧客は皆無だったと言われています。

オリンピックの開会式に合わせて聖火ランナーを走らせ,国別の入場行進で愛国心を煽る演出を考え出したのも彼だといわれています。メルセデスのグランプリカーが国威発揚の期待を担わされていたことも同じ意味を持っていたとされています。
その目的においては決して正当化されベからざるヒットラーでしたが、用いた手段の中には幾つもが応用されている事が判ります。

| 18:46 | コメント(0) | カテゴリー:吉田雅彦


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