2021年08月15日

今も残る傷痕

P1110765

京浜急行、横浜戸部間に見えるコンクリートの塊、これが元の駅のプラットホームと知る人は少ないでしょう。平沼駅という今は無い京浜急行の駅でした。その昔は鉄骨の屋根の骨組みがあったようですが今はそれも無く、ホームの短さが昔を偲ばせる唯一の手がかり。横浜が大空襲を受けた日には既に戦時下ということで廃止された後だったものの炎から逃れる人々が高架駅下に逃げ込み、無数に投下された焼夷弾で焼け焦げた跡も残ったほどだとか。

実はJR鶴見線に乗り換えるともっと生々しい戦争の傷跡が今も残されています。
国道駅近くのコンクリートで出来た高架橋の表面にはpー51ムスタング戦闘機の機銃掃射を受けて出来た攻撃の跡が残されています。
機銃掃射の跡は大川支線の終点手前にある鋼鉄製のガーター橋にも確認できます。

pー51の兵隊はたかだか2〜30ミリの機関砲を連射して鉄道施設を破壊できるとでも思ったのでしょうか?それとも照準を合わせた先には人影があったのか?
記録によればこのほか判明しているだけでも東海道線二宮駅、中央線高尾駅のホーム屋根などに、銃撃痕が残されており、走行中の電車が銃撃され数十人の犠牲を生んだケースも。
明らかに電車内の人命を狙った攻撃であることは明白。乗客は武器も盾も、まず持ち合わせてはいない。

今日は太平洋戦争に敗北した事を認め国民に天皇の声でそれが伝えられた日
横浜空襲で記録に残る犠牲者は3000余と伝えられますが実際には8000とも10000とも言われる市民が犠牲になったとの見方もあります。
政治家が靖國神社参拝で英霊達を慰めるからには、二度とこの国を戦禍に巻き込まないと言う強い誓いを立てて欲しいものです。

| 14:48 | コメント(0) | カテゴリー:吉田雅彦

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