2021年07月12日

1993北海道南西沖

1993年のこの日、午後10時を回った時刻には留萌本線の留萌駅の駅舎内にいました。当時はまだ増毛までの路線が廃止になる前で、石造りの立派な易者にはこの日最終の列車が滑り込んできたところでした・・・・
突如襲って来た震度4の大きな揺れ。程なくしてパトカーがサイレンを鳴らしながら津波への警戒を呼びかけていました。

北海道南西沖地震と名付けられたこの地震は奥尻島や対岸の江差付近に5-6メートルもの津波をもたらして200人以上が犠牲となりました。

夜も更けて街中では人影もまばらな時間帯に最短5分で突如津波に襲われた奥尻島青苗地区の人々は逃げるいとまも無いまま濁流に飲まれてしまったのかもしれません。本島側に反射してきた津波が合流したとも、第二波到達前に役場の前で避難する車の渋滞が発生したとも伝えられます。
地震発生を伝える地元の放送局は崖くずれの発生した本島内の災害現場には到着したものの、奥尻の惨状が伝えられるのは結局夜が明けてからになりました。正確な震度の計測も奥尻島には機器がなく、後の憲章で震度6以上ではなかったかと解析されましたが、発生当日はそのようなデータがありません。

10年前に起きた 日本海中部地震で日本海側でも津波被害は甚大になり得る事が理解されたものの、真っ暗闇の中で襲って来る津波の恐怖は例えるものが思い当たりません。
当時は報道の仕事を生業として10年ちょっと、津波被害で何百という人命が失われるという信じられない光景に、ただただわが目を疑うばかりでした。

でも、その驚きは18ヵ月後に兵庫県を襲ったとてつもなく大きな被害を予感させるものでは、残念ながらありませんでした。もちろん、それから16年の後、未曾有という言葉でとても表しきれない災禍に見舞われることも、予測の範疇をはるかに超えていたことは言うまでもありません。

| 22:52 | コメント(0) | カテゴリー:吉田雅彦

コメント

■コメントはこちらへ


保存しますか?
(書式を変更するような一部のHTMLタグを使うことができます)


2024年 4月

  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        

バックナンバー

カテゴリー